「あずぶろ。」

僕の頭の中。時々、僕が好きなもの。

ある生徒が教えてくれたこと。「教育」ではなく、「共育」だということ。

ある生徒が教えてくれたこと。「教育」ではなく、「共育」。

 

自粛中の日曜日は、完全なOFF日。

「誰が興味あんねん」と言われそうだが、最近の私の休日ルーティン。

 

最近は、大好物の飲み会がなく、かなり健康的な生活を送っていて、柄にもなく早寝な

ので、朝早く目覚ましなしで自然に目が覚める。

本来こういう生活が正しいのだろうが。

 

布団を整え、全ての窓を全開にして空気を入れ替える。

お白湯を体内に注入し、お気に入りのコーヒー豆を挽く。

往復5キロ程をゆっくりと、太陽を身体中に浴びながら歩く。

たまに面白エピソードも発見できる。

近くのスタバで豆を購入し、復路はペースアップ。

自宅に戻り、モーニングシャワー。

軽めの朝食、そして、丁寧に歯磨き。

それから、お気に入りのお香を楽しみながら、こうやってデスクに向かう。

 

ウォーキング中は、気付けば何か考え事をしている。

ただ、それは悩み事ではない。

つまり、未来のこと。(私は、悩みがないことが唯一の悩み)

明日からの授業のつかみトークの内容、道徳授業のプラン、毎日綴るブログや学校での新しい企画など。

 

しかし、一番考えていることは、「先週の自分」、つまり、「過去の自分」より成長で

きたか、である。

 

「教師」という職業を選択して、今年度で23年目を迎えた。25周年記念でホテルでディナーショーでも開いたろか(笑)。開いたら読者の皆さん来てくださいね。

 

若い時は、訳もわからず「教師だから」という理由で、「学校やクラスを自分の力不足で荒らしてはいけない」、「教育者はこうあるべき」、「自分の言うことを聴かせなければ」、「生徒にナメられないように」など、さほど力量もないのに、自分の価値観を生徒に強制的に押し付けていた。

うまく行かないと、自分の勉強不足、未熟さ、弱さを隠すように高圧的に接していた。

 

今、思い返せば恥ずかしく、反省しかない。

当時に戻れるなら、もう一度やり直したいと思う。

 

しばらくして、私は結婚し、2人の子どもを授かった。

それと同時に、私の教育観も少しづつ変化した。

教師としてのたくさんの経験を積み、時間が経った。

 

ウォーキング中、芝生の大きな公園を通るのだが、父親と小さなお子さんがサッカーボ

ールを蹴っていた。

しかし、よく見ると熱がこもっているのは父親だけで、子どもは全く楽しそうじゃな

い。何なら、その意欲のない態度に怒鳴られている。

「可哀想になあ。ああ、この子はサッカー好きの、経験者の父親にサッカーをやらされ

てとるな」

この光景を見て、過去の私の授業もこんな感じで強制的にやらせていたなと振り返った。

 

私は、わが子に「このスポーツをやりなさい」「勉強しなさい」と決して言わない。

私が現在担当している生徒たちにも「説明」はするが、「指示」や「命令」はしない。

 

おそらく、私の性格なのだろう。

私は幼い頃から、人から指示されるのが大嫌いだ。

「あれしなさい」「これしなさい」

他人からされたら嫌なことを自分ではしないつもりでいた。

 

だが、そんな私は教師になりたての頃は毎日細かく生徒に指示や命令をしていた。

うまく行かないことが多く、何度かもう教師なんかやめて、好きなお笑いの仕事でもや

ろうと本気で思っていた。

自分が嫌なことを自分ではやらない奴が、自分に嘘をついて周りに合わせて無理をして

いた。

 

ある年、小学校の時から担任に対して暴力を振るい、地域でも有名な「やんちゃな生徒」が入学してきた。私は志願して担任した。

 

少しの経験もあったが、味わったこととのない苦悩の毎日だった。

他の教師は、諦めて、そいつの行動を見て見ぬふりする人も出てきた。

 

でも、楽しかった。しかし、当時は苦悩の方が勝っていたから、いつでも辞めたるで、

ぐらいの覚悟で3年間そいつを担任した。

 

「こいつは、何でこんねん人に迷惑かけることばっかするんや。

 ホンマええ加減にせいよ。でも、何とかしたらんとな」

 

そこから、そいつと私との闘いの日々が始まった。

 

まず、何をしたか。

 

教師として、もう一度勉強し直すことにした。

無知な領域が多すぎた。

教育心理学、子どもの発育発達、精神的疾患、犯罪心理学、刑法などの法令など、子ど

もに関わる全ての領域を勉強し直した。

 

その生徒には、必死で勉強し身に付けた知識とテクニックでアプローチしサポートし

た。

しかし、その知識とテクニックが通用しない時は何度もあったが、何度もそいつとはぶつかった。「本の知なんか、こいつには全然通用せんな。」。それも学んだ。

 

卒業式の日。

特攻服を着たそいつは、卒業式後、恥ずかしそうに私に一番大きな花束と、シワシワの手紙をくれた。その手紙には汚い字だったが、こう書かれていた。

 

「今日まで俺のこと見捨てんと、マジで怒ってくれたん先生だけやった。ホンマ、ありがとうやで。中学、おもろかったわ。ビッグになるから、そん時まで待っとって〜や。後輩らも俺みたいにやんちゃな奴いっぱいおるし、先生が担任したって〜や。ほなバイバイ」

 

「教師」という仕事を続ける決意をした。

今も迷いそうになったら、たまにその手紙を読み返している。

 

原付の試験を2回落ちたが、免許を取った時には、真っ先に報告に来た。

彼女ができたら学校に見せにきた。

「子どもができたし、こいつと結婚する」とも言っていた。

 

だが、そいつは、卒業から4年後の夏、そいつがバイクで信号待ちしていたところ、居

眠り運転の大型トラックに後方から追突され即死した。

 

そいつから、たくさん教えてもらった。

そいつとの出会いが、猛勉強する機会を与えてくれた。

 

大人がすることは、「教育」ではない。

偉そうに説教することはない。教科書を教えることではない。

 

子どもと共に成長していく「共育」だということを過去の自分、後輩教師、そして、保

護者の皆さんに全力で伝えたい。

 

大人が子どもにしてあげることは、たった3つだけ。

 

受容と共感、そして、傾聴。

 

あいつに墓参りで毎回聞いている。

 

「おい、迷惑かもしれんけど、先生はお前の分も、人生楽しく生きてやるからな。」

 

あの時、あいつに紹介された彼女(奥さん)と、大きくなっていく子どもとともに毎年暑くなってきた頃、一緒に墓前で手を合わせる。

 

「幸せになれよ」

 

街にあふれる「何でやねん」シリーズ

①石油王が停めてるんか。現金での支払いのみ。

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よき日曜日を。

今夜私がいただくのは、私がつくる「広島焼き」。

しっかり仕込もう。

家族の笑顔のために。