「あずぶろ。」

僕の頭の中。時々、僕が好きなもの。

「基準」

「基準」

私が、サッカーコーチを始めたのは大学を卒業してすぐのこと。

今から23年前。

始めた当時は、余裕もコーチングスキルもなく、ただ「勝つため」だけに、見せかけの恐怖と規律でチームを軍隊化し、「なぜこんな簡単なことこともできないのか」と思いながら、ただただ勘違いの日々を送っていた。

今思えば、当時の選手には申し訳ないほど不勉強で経験不足だった。

 

しかし、現在、その時の選手たちが成長し、続々とチームに戻ってきてくれて、私をサポートし、後輩の指導に当たってくれている。

 

そのひとり、この春高校3年生になったSだ。

私が転勤した関係で、Sが中学校に入学して2年生までしか見れなかったが、GKとしてしっかりとゴールを守ってくれた。

恵まれた身体能力と持ち前の根性。GKとして全てが備わっていた。

高3になり、進路選択としてプロレフェリー(審判)になる道を決めた。

指導者として、非常に嬉しく、誇らしくもある。

いつも言っている「誰かの役に立つこと」を体現してくれようとしている。

レフェリーがいないと試合は成立しない。

 

たくさんの教え子たちを世の中に送り出してみると、気付くことが山ほどある。

(このブログを始めたのもこれがきっかけだが)

 

この「プロレフェリー」は、「プロ教師」と同じだと思っている。

違反や反則があると、そのタイミングでホイッスルで対象選手と全体にアナウンスする。

「これは反則です」

選手に警告を与えたり、時には退場を命じる(教師は退場を命じることはないが)。

プレー中の選手は興奮しているので、納得する選手もいれば、中には異議を申し立ててくる選手もいる。

 

しかし、その反則や違反に対して「見逃し」は許されない。

反則する選手は、「自分が反則した」ことを自覚している。

それを見逃せば、「あ、次もやっていいんだ。」となる。

しかも、それと同時に相手も「あれが良いんだったら、俺たちもやろう」となり、試合は荒れに荒れる。

 

学校も同じだ。

「ここを見逃してはならない場面」で教師が見逃すと、学校は荒れる。

中学校1年生は「可愛いな」などと悠長なことを言いながら胡座をかいていれば、1年後、2年後に大きな荒れとなって、学校は完全に機能不全を起こす。

私が転勤の時は、すでに荒廃している学年を担当することが多く、その都度たくさんの経験をさせて頂いた。

 

レフェリーも教師も試合や教室が荒れる、一番大きな原因は何だろうか。

 

私の回答は、そこに「基準」がないことです。

 

「基準」とは、簡単に言えば「ここまでは良いけど、これ以上は絶対に許さないよ」と言う「選手、生徒に分かりやすく示すライン」のことだ。

 

一概には言えないが、これが示せない、または不明瞭な指導者、レフェリー、教師の背景には、おそらく荒れた景色が広がっているのではないだろうか。

 

素晴らしいレフェリーは自分のジャッジミスも認知し、自身の判断を訂正できる。

しかも、紳士的な謝り方で。

今の、大人が一番苦手なことだ。

これができない大人には子どもは一切心を開かない。これもたくさん経験済み。

 

いつも子供たちに伝えている。

「この3つだけは忘れるな。」と。

 

「ありがとうございます」

「すみませんでした」

「笑顔」

 

改めて、私の教え子たちの活躍を心から祈る。

 

もし、教え子たちが読んでくれているなら、

もう一度伝える。

 

「がんばれよ」

 

 

街にあふれる「何でやねん」シリーズ

①こわっ。

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また、明日。