「第500話記念 教育者として思うこと」
「教育現場への過干渉をやめる」
世間では親の過干渉がよく話題になるが、文部科学省も過干渉気味に私には見える。
良かれと思ってやっていることはもちろんわかるが、それではますます現場の教員は自分の頭で考えなくなる。
自分の頭で考えない教員が、自分の頭で考える子どもを育てられるわけがない。
不登校特例校や通信制高校やフリースクールの事例からわかることは、より多くの子どもたちにとって居心地の良い学校を目指すなら、必要なのは、足し算ではなく引き算の発想。
例えば、義務教育の標準授業時数を思いっきり削ってしまう。授業は午前中のみ。給食を食べて掃除をしたら下校。そうすれば現在の教師の過重労働問題もすみやかに解決に向かう。
コロンブスの卵のような話であり、あくまで思考実験であり、学童問題や部活問題など別の課題も生じることは予測できるが、ファンタジーとも言い切れない。
1990年代後半には実際に「学校のスリム化」が議論されたこともあった。小渕内閣の「21世紀日本の構想」懇談会報告書には、まさにこのような提言が盛り込まれていた。
「先生によって授業内容は違っていい」
限られた授業時数の中で、教員たちは自分の個性と得意分野を活かして、自分にしかできない授業をすればいい。
授業の中で、子どもたちにどれだけの知識や技能を詰め込んだかではなくて、どれだけ子どもたちの心が動いたかを追求すればいい。
大人になってから新しいことを学ぶのが面白く感じられるのは、テストのためという呪縛がないから。もし日本中の教員が、テストで点をとらせることなど忘れて、純粋に自分が専門とする教科の魅力を好き放題に語ってよいことにすれば、中高生の間、毎日学校に通って一日数時間の授業を聞いているだけで、生徒には相当な教養が身につくはずだ。そうすれば日本人の教養レベルは飛躍的に向上するはず。
半面、学びの自由度を高めれば高めるほど学力差がつくことが予測される。そこで、家で勉強を見てもらうこともできず学校の勉強すらままならないような子のために、放課後にしっかり個別補習を受けられる仕組みを整える。
そこにこそ公的な教育資金を投じ、彼らの学びの底板が外れないようにする。地域のボランティアの力を借りることもできるだろう。
そうすれば、理屈の上では、勉強がわからなくて不登校になるケースは減らせるかも知れない。
「学校をちゃんとしすぎない」
モザイク模様の学び環境だとか、義務教育を午前中だけにするなど、先述では壮大な思考実験を披露したが、あながちできないことではないと思っているし、そのうちそういう社会になるだろうという気は本気でしているが、すぐに実現できる話でもないことは確かだ。そしてそうこうしている間にも、子どもたちはどんどん大きくなってしまう。
では、不登校の問題に限らず、できるだけ多くの子どもたちにとって学校を心地よい学びの場にするために、社会としていますぐできることは何か。
最後に、一つだけ提案したいと思う。
「学校を、間違ったことを言ってもやってもいいところにする」
子どもにとっても、教員にとっても、だ。「細かいことは、まあええやん」の心意気だ。
時々ふらっと一人で立ち飲み屋さんに寄って帰ることがあるのだが、そこで知り合う、様々な業種の方々と意見交換をさせて頂く中で、たまに、「まじめって犯罪だよな」や「ふざけ・いたずら・ずる・脱線を止めない」や「『学校』をやるな」という言葉が出てきたりする。限度はあるが、要するに、「学校をちゃんとしすぎないようにしよう」ということだ。
少し難しい言い方をすれば、私たち大人が長年の学校教育のなかで受けた過度な社会化から、まず、私たち自身が今一度解き放たれて、もうちょっと「しぜん」に戻ろうということだ。
これだけでもできれば、大きな制度変更をしなくても、大きな予算をつけなくても、全国の学校の雰囲気が大きく変わると本気で思っている。
また、明日から2学期が始まる。私は、子どもたちのためになることだけを考え、企画していく。
医療ドラマ「ドクターX」で米倉涼子演じる大門未知子の名台詞、「いたしません」
院長回診、論文の下調べ、愛人の隠蔽工作、権力争いへの加担、学会のお供、ゴルフの送り迎え、出世のお手伝い、新年会・忘年会などの参加、研究のお手伝い、医務内の雑務、唯一無二の合唱、
医師免許を必要としない仕事は一切、いたしません。
私もプロ教師として、子どもたちのためにならないことは、「いたしません」。
そして、全ての生徒指導案件やその対応には、「私、失敗しないので」。
明日から言い放っていこう。
いつも読んでいただいてありがとうございます。
明日からもその日に感じたこと、書き綴って行きます。
また明日。