子どもを叱れぬ「甘い」教師の落とし穴。だから生徒に信用されない。
子どもとの関係性を壊すのが怖くて叱る、注意することができない先生が増えている。
「厳しい先生、甘い先生」
若い先生方、あるいは教育実習生からなどでもよく聞くのが「叱れない」「注意できない」という悩みだ。子どもとの関係性が壊れるのが怖いのである。
今回は、ここについて述べる。
まず、「叱る」という行為だが、これは基本的には人間関係ができてからでないと、本来の正しい効果を期待できない。
叱るという行為には、人間的で感情的なものが入るからである。
一方で、注意はできる。これは、人間関係の有無とは関係なしに、役割としてできる。
例えば、ビルの侵入禁止区域に立ち入ったら、全く見ず知らずの警備員の方に注意されるのは当然である。
それを不服と思う方がどうかしている。場合によっては、注意する側が警備ロボットのような機械であっても成立する。
要は、だめなことなら、関係性の有無に関わらず「それは困る」「いけない」ときちんと伝えること。
これが肝要である。
そして、これは「叱る」とは全く別次元の話である。
「叱る」は関係性ができてきたら、行うべき時に行うものである。
何度も注意されていることを平気で破るようであれば、これは叱る対象である。
あるいは、人間的に許せないようなことであれば、やはり叱る対象である。
ここで先に述べた、関係性が壊れるという恐れが生じるかもしれないが、これは真逆である。
叱るから、関係性が良好になるのである。信頼につながるのである。
どういうことか。
だめなことをきちんとだめなことだと叱ってくれない状況が続くとする。
まず、当の本人はどんどん悪くなる。周りの子どもは「なぜこの人は先生という立場なのに、こういう時にきちんと叱らないのだろう」と不信感をもつ。
叱らないことで、信頼を失うのである。
一方、だめなことを毅然と叱るとする。
まず、当の本人がこれは認めてもらえない行為だと認識する(ただし、素直にきくかどうかは本人の器次第である)。
周りの子どもは「自分も嫌だと思っていた行為を、先生はきちんと止めてくれた」と安心する。
叱ることで、信頼の構築につながる。
「信賞必罰の大原則」
ここで大事なのは、ワンセットとして、それ以上にこれまで正しい行為を褒める、認めているということである。
「信賞必罰」の大原則である。
先にベースとして、正しいことを正しいと認める行為がたくさんある。
授業開始時に席につかずに騒いでいる子を叱るのは、ずっとずっと後でよい。
それよりも、真面目に授業開始を待って準備している子どもと目を合わせ、認める。
きちんと頑張っている真面目な子が、最初はたとえ一人や二人であっても、それを繰り返せば、あっという間に大多数になる。
逆も成立する。
騒いでいる子どもをまず先に叱ったとする。真面目な子どもは、ただ黙って座ってその叱責を聞いている。
これが繰り返されれば、最初は少数が騒いでいたとしても、あっという間に大多数が騒ぐ学級になる。
騒いでいる方が認められる(見て止める=注目する)からである。
ひたすら甘い先生が人気を博すのは、だらけた集団の場合だけである。
やる気のない人たちが、騒ぎ放題騒げるからである。
(一部の大学生が、さぼっていてもとにかく単位を与えてくれる甘い教授が一番いい、というのと同じである)
子どもたちの真の成長を願う愛情の裏付けがあるのならば、厳しくなるのは当然である。
一方で、甘くした方がいいのは、傷ついている子どもたち、心理的に0より下にある子どもたちである。
これはいうなれば病人のような状態だから、厳しくトレーニングしても逆効果である。
いわゆる正常な心理状態の相手である場合ならば、しっかりと鍛えるところである。
そう考えると、厳しい先生も甘い先生も、ニーズがある。
ただ、単に嫌われたくないから叱らないというならば、それは完全に思い違いであるということだけは断言しておく。
また明日。