ある生徒が教えてくれたこと。「教育」ではなく、「共育」。
私が夜寝る前に考えていることは、「昨日の自分」、つまり、「過去の自分」より成長できたか、である。
「教師」という職業を選択して、今年で24年目を迎えた。25周年記念でホテルでディナーショーでも開いたろか(笑)。
開いたら皆さん来てくださいね。
若い時は、訳もわからず「教師だから」という理由で、
「学校やクラスを自分の力不足で荒らしてはいけない」、
「教育者はこうあるべき」、
「自分の言うことを聴かせなければ」、
「生徒にナメられないように」など、さほど力量もないのに、
自分の価値観を生徒に強制的に押し付けていた。
うまく行かないと、自分の勉強不足、未熟さ、弱さを隠すように高圧的に接していた。
今、思い返せば恥ずかしく、反省しかない。
当時に戻れるなら、もう一度やり直したいとも思う。
しばらくして、私は結婚し、2人の子どもを授かった。
それと同時に、私の教育観も少しづつ変化した。
教師としてのたくさんの経験を積み、時間が経った。
ウォーキング中、芝生の大きな公園を通るのだが、
父親と小さなお子さんさんがサッカーボールを蹴っていた。
しかし、よく見ると熱がこもっているのは父親だけで、子どもは全く楽しそうじゃない。
何なら、その意欲のない態度に怒鳴られている。
「可哀想になあ。ああ、この子はサッカー好きの、経験者の父親にサッカーをやらされてとるな」
この光景を見て、過去の私の授業もこんな感じで強制的にやらせていたなと振り返った。
私は、わが子に「このスポーツをやりなさい」「勉強しなさい」と決して言わない。
私が担任や授業をするときは、生徒たちに「説明」はするが、「指示」や「命令」はしない。
おそらく、私の性格なのだろう。
私は幼い頃から、人から指示されるのが大嫌いだ。
「あれしなさい」「これしなさい」
他人からされたら嫌なことを、自分ではしないつもりでいた。
だが、そんな私も教師になりたての頃は毎日細かく生徒に指示や命令をしていた。
うまくいかないことが多く、何度かもう教師なんか辞めて、前職でもあるお笑いの番組づくりの仕事に戻ろうと本気で思っていた。
自分が嫌なことを自分ではやらない奴が、自分に嘘をついて周りに合わせて無理をしていた。
ある年、小学校の時から担任に対して暴力を振るい、
地域でも有名な「やんちゃな生徒」が入学してきた。
私は志願して担任した。
少しの経験はあったが、味わったこととのない苦悩の毎日だった。
他の教師は、諦めて、そいつの行動を見て見ぬふりする人も出てきた。
でも、なぜか楽しかった。
しかし、当時は苦悩の方が勝っていたから、いつでも辞めたるで、ぐらいの覚悟で3年間そいつを担任した。
「こいつは、何でこんねん人に迷惑かけることばっかするんや。ホンマええ加減にせいよ。でも、何とかしたらんとな」
そこから、そいつと私との闘いの日々が始まった。
まず、何をしたか。
教師として、もう一度勉強し直すことにした。無知な領域が多すぎると感じたからだ。
教育心理学、子どもの発育発達、精神的疾患、犯罪心理学、刑法などの法令など、子どもに関わる全ての領域を勉強し直した。
その生徒には、必死で勉強し身に付けた知識とテクニックでアプローチし、サポートした。
しかし、その知識とテクニックが通用しない時は何度もあり、何度もそいつとはぶつかった。
「本の知なんか、こいつには全然通用せんな。」
卒業式の日。
特攻服を着たそいつは、卒業式後、恥ずかしそうに私に一番大きな花束と、シワシワの手紙をくれた。
その手紙には汚い字だったが、こう書かれていた。
「今日まで俺のこと見捨てんと、マジで怒ってくれたん先生だけやった。
ホンマ、ありがとうやで。中学、おもろかったわ。ビッグになるから、そん時まで待っとって〜や。
後輩らも俺みたいにやんちゃな奴いっぱいおるし、先生が担任したって〜や。ほなバイバイ」
「教師」という仕事を続ける決意をした。
今も迷いそうになったら、たまにその手紙を読み返している。
時は過ぎ、原付バイク免許の試験を2回落ちたが、免許を取った時には、真っ先に報告に来た。
彼女ができたようで、学校にわざわざ見せにきた。
その時は、「子どもができたし、俺、こいつと結婚する」とも言っていた。
わざわざ会いに来てくれるんやな。やっぱ好きやわ、こいつ。やっぱ教師、辞めんとこ。
純粋に、そう思った。
だが、卒業から4年後の夏、そいつが現場仕事を終え、家に帰る途中に、原付バイクで信号待ちしていたところ、
居眠り運転の大型トラックに後方から追突され、彼は即死した。
そいつから、たくさん教えてもらった。
そいつとの出会いが、猛勉強する機会を与えてくれた。
教師という職業の魅力を教えてもらった。
大人がすることは、「教育」ではない。
偉そうに説教することはない。
教科書を教えることでもない。
子どもと共に成長していく「共育」だということを過去の自分、後輩教師、そして、保護者の皆さんに全力で伝えたい。
大人が子どもにしてあげることは、たった3つだけ。
受容と共感、そして、傾聴。
毎年通わせていただいている墓参りで、あいつの墓前で私は毎回聞いている。
「おい、迷惑かもしれんけど、先生はお前の分も、人生楽しく生きてやるからな。
お前が出会うはずやったたくさんの人たちに出会ってあげるからな。
ゆっくり休め。そっちから家族を守れ。」
あの時、あいつに紹介された彼女(奥さん)と、
だんだん大きくな里、あいつに顔が似てきた子どもとともに、
毎年暑くなってきた頃、一緒に墓前で手を合わせる。
「幸せになれよ」
良いお天気。最高の土曜日を。